「アヤ・ブレアの想い」(5.クロカワ)
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第1回
「はぁ…はぁ……はぁ…ぅ…んっ…」
体が燃えるように熱い…
全身に,じっとりと汗が滲む。
「ぁ……ぅ…んん……ぅっ…」
未だかつて経験したことのない,強烈な肉欲の疼き。
両の太腿を擦り合わせても,その程度では体の芯からの欲求を鎮めることができない。
アヤは,身悶えするベッドの上でシーツを噛み,情欲に呑み込まれまいと必死に耐え続けていた。
……こんなもので…堕ちたりなんかしないっ……
体の変調に,思い当たりはあった。
ヌメヌメとした,触手やクリーチャーから滲み出ていた体液……
あの,妙な甘い香りが鼻腔から脳内に入ってきたときから,妖しくもクラクラと体から力が抜け
ていくような気がした記憶を,アヤは思い返していた。
あれが恐らくは,媚薬のような働きをするのだろう。
女の抵抗を封じ,悦ばせ,堕とし狂わせるために…
もともとクリーチャーとは,覚醒したミトコンドリアの反乱によって,動物や人間が異形の生物
に変えられてしまったものではあるが,そのミトコンドリアパワーを利用して新しい人間の形を生
み出そうとする違法な生体実験で生み出されたものも多い。
新しい人間の形…
それは,アヤの持つパラサイトエナジーがアヤの意識と連動しているように,人間の持つ欲望や
思念というものを何らかの形でミトコンドリアパワーに繋げ,その通りの姿形に人間を変身させよ
うとする研究である。
例えば…
理論上で言えば,攻撃能力を身につけたいと強く思うことで炎や電撃を出すことも可能であるし,
脚力をつけたいと思えばそのように足を変化させることもできるとされている。
女を堕とし狂わせたいという欲望を込めてイメージ化を行えば,体内で媚薬を創り出し,体液と
して分泌することも不可能ではないのだろう。
ただ,研究の数世代前までは,人間を幼生化するという方法が採られていたように,人の意思を
残して能力をつけるというには,未だ技術上の問題はあまりにも高い。
結局のところ,その思念によって創られる特殊能力には凄まじいものがあるものの,現実的には
まだ実験過程でしかなく,人としての記憶や理性,知能,それに姿形といったものまで醜悪に失わ
れてしまう『なりそこない』しか創れないというのが限界点だった。
そのはずだった……
……負け…ないわっ……こんな…の……媚薬など…ただの一時的な,まやかしよ……
アヤは,自分の乳房や秘部に指を伸ばそうとする衝動を抑えて,荒い息を吐く。
媚薬である体液が塗りたくられた肌,そして大量に注ぎ込まれた秘部がジリジリと疼き,とても
じっとしていられないほどに燃え上がっていた。
……くっ…グリストファ…っ……
アヤは,女としての自分を屈服させた,恐るべき男の姿を思い浮かべる。
人間の姿や理性を保ったままで,自らをNMC化させた,MISTの局長…
いったい,グリストファは,研究によってどこまでのことを実現可能にしたのだろうか。
どれほどの,パラサイトレベルを持ち得ているのか。
自分に協力をさせて,何をさせようとしているのか。
……いったい,何を……
考えを巡らそうとしながら,アヤはそれが,いつの間にかどうでもよくなっていくのに気づいた。
「はぁ,はぁ……ぁ……んっ」
唇から熱い息を吐き,シーツを掻きむしる。
これ以上は,我慢できそうになかった。
頭の中では,自分がイヤらしく凌辱されているシーンばかりが駆け巡る。
あれが,もう一度欲しい…
今すぐに犯されたい…
力尽くで突き上げられて,絶頂に追い上げられたい…
……嫌…変なコトばかり考えてしまう…っ……でも…もう…気が…おかしくなりそう……
激しい淫欲に,理性がぼやける。
体の絶え間ない疼きは,徐々にアヤから思考力を奪っていこうとしていた。
そのとき,小屋の扉が,軋む音を響かせて開く。
「ご機嫌はいかがかね? アヤ。お邪魔でなければよいのだが?」
傲然とした声とともに,姿を現したグリストファ。
「…………っ」
アヤは無言で答えた。
自分を更に嘲笑し,辱めに来たのか。
淫欲に翻弄される,自分の無様な姿を見られる悔しさ。
体の疼きを懸命に堪えつつ,アヤは歯を食い縛り,銀色の月明かりに浮かび上がったその姿を,
ゆっくりと見上げる。
「……っ!…」
一瞬,アヤはそれを理解できなかった。
一呼吸の後,驚愕に大きく息を呑む。
グリストファに,ではない。
その腕に抱えられているもの……それは,クロカワのような生き物だった。
「まさか……それは…っ……」
アヤは,自らの情欲の疼きも忘れ,呆然と掠れ声を絞り出した。
隻腕のはずのクロカワ…
その大きな体幹の両側面から,びっしりと…何本も生え,伸びた腕。
周囲を探るように,揺らめく触手のような…大小様々な無数の手。
顔を見れば,確かにクロカワには違いないが,その瞳は焦点を捉えてはおらず,意識が闇に包ま
れていることが一目で分かる。
「見た通りの,クロカワだ。少々,姿が変わってはいるがね」
「そんな…っ……」
薄く笑ったグリストファの言葉に,アヤは声を失った。
だが,事態は説明を受けるまでもなく明らかだった。
こういった状況は,何度も見て,そして知っている。
それは……NMC化が,顕著に体表面に現れたクロカワの姿。
それも,一般的なNMCと同様,人としての自我を崩壊させている。
それ以上でも,それ以下でもない。
「知らなかったかね? 人間を辞めたのは,私だけではないのだよ。彼もまた,自らの意志で私に
同調した仲間でね。その辺は,先日,説明したはずだったが」
グリストファの声が,耳を滑っていく。
「クロカワ…っ……どうして…貴方まで……何てことなの…何て……」
アヤは,言葉を詰まらせた。
敬愛するクロカワ…
たとえ,グリストファの側にいたとしても,何かの考えがあってのことと信じていた。
最後には,グリストファを倒すために共闘できる仲間だと疑わなかった。
ましてや,NMCなどに身を堕とすなど,絶対にあり得ないことだった。
……そんな…そんな…っ……本当に…グリストファの仲間だと…そういうことなの……
アヤの全身から,力が抜け落ちていく。
全てを失っていくような喪失感がアヤを襲っていた。
しかし,グリストファの説明は,更に衝撃的なものだった。
「本日,我々は奇襲により襲撃を1つ行った」
悠然と,表情も変えず,宣告するかのようなグリストファの声。
その言葉の意味するところに,アヤの胸がドキンと反応する。
グリストファの言う襲撃とは,支配下のNMCによるものであることは間違いがない。
「そ…そこは…」
MISTの仲間たちや,カイルたちのことが頭をよぎる。
だが,そんなアヤの不安など,もはや取るに足りない小さな事であるかのように,グリストファ
はあっさりとそれを否定した。
「我々の敵はMISTではない。もちろん,君と約束をした以上,カイル君たちでもない。今回,
我々が向かったのは,表向きはアーゼルとか言う製薬会社の製造工場だ」
「アーゼル!?」
アヤは,その名前に聞き覚えがある。
NMCを研究している可能性としてはMISTでも重要リストに挙げられていたが,証拠を掴む
ことができず,また様々なところから圧力をかけられ,未だに踏み込むことができないでいた灰色
の製薬会社だった。
「そうだ。君も知っているだろう? MISTが,なかなか手を出すことができなかった相手だよ。
見かけでは何の変哲もない工場に見えるが,街中でなく山中にあるところが,いかにもという感じ
がしなかったかね? あれは,山中という地形をフルに利用した,大規模な地下研究所なのだよ。
姑息な手で誤魔化そうとしても,我々には無駄なことだ。MISTには悪いが,まごまごしている
うちにお先に失礼した。おかげで,完全に目的を達成とまではいかないが,非常に貴重な研究資料
を得ることができたよ」
グリストファは,不敵な笑みを浮かべる。
「何てこと……」
呆然と,アヤは呟いた。
グリストファは,本格的に動き始めたのだ。
それも,敵を排除するためではなく,更なる力を求めて奪うために。
……MISTが…出し抜かれるなんて……こんなにも堂々と……
アヤは,思い返す。
先日,グリストファの声と共に,自分と戦ったNMCの統制された動き。
あの様子を見る限り,既にNMCを支配・統制し,いつでも実戦に投入できるレベルにまで準備
が進んでいたのは明らかだった。
多分,かなり以前から準備を整えていたのだろう。
それが…今まで,水面下に潜っていたのは,自分がMISTにいたからに他ならない。
その障害物である自分を捕らえ,抵抗の芽を摘むことに成功した以上,もはや事を運ぶのに何の
懸念もあるはずもなかった。
……とうとう…これから始まるの……
暗澹とした前途は,いったいどれほどの混沌に見舞われるのか見通すことすらできない。
アヤは,自分の無力さ,矮小さを改めて思い知らされるようだった。
……局長という立場を利用すれば……情報を集め,また操作することも…それに,状況さえ整える
ことができれば,思った通りに支局のMISTを動かすことも可能……
ここに至って,アヤはようやく,グリストファのねらいをほぼ正確に理解する。
アーゼルがNMCの研究をしていることを突き止め,襲撃という行為に及んだのは,MISTと
いう専門組織の情報網を利用し,アーゼルを標的にそれだけの調査をさせることができたからだ。
それも,公にMISTの立場を利用して,堂々と。
グリストファには,それを行えるだけの権限がある。
その事実からくる可能性,底の知れない恐ろしさは,まるで無限に広がる漆黒の闇のようだった。
……今までは…MISTのメンバーが,グリストファ率いるNMCと戦うはめになることを恐れて
いたけれど……多分…そうはならない…むしろ逆……
さっきまでの火照りが嘘のように,肌に悪寒が奔る。
これからも……MISTは,任務遂行のために獅子奮迅の働きを見せることだろう。
NMCの事件が起これば出動し,その事件から証拠が繋がれば,研究施設に踏み込み無力化し,
完全な制圧に全力を尽くす。
表向きは,今までと何の変わりもなく。
血を流し,犠牲を払いながら。
そして……局長の賞賛と激励を受け,殉職者を盛大に弔い,涙を流し,祝杯を挙げる。
高揚感に包まれ,職務への誇りを確固たるものとして。
しかし……
アヤは,考えを巡らせる。
もしそれが,グリストファに情報を操作され,仕組まれたものであったとしたら…?
たとえば……NMC事件が起こり,そこから研究施設の名前が挙がったとして,必ずしも両者に
繋がりがあると,本当に言い切れるのか。
……MISTの目を,目的の研究所へと向けさせるために……グリストファが,支配下のNMCを
利用し,情報を操作していたということだってあり得る……
目的とする研究所のNMCであるかのように姿を現して『見せ』,研究内容の『証拠』を残し,
時にはMISTを襲って犠牲を強いたりする…
グリストファがMISTを動かし,強制捜査を行う理由をつくるために。
目的を達成し,更に強大なNMCを生み出すために。
またそのために,グリストファはむしろ,MISTの活躍と存在価値を強調して,組織力の強化
を上層部に訴え働くことだろう。
……MISTが,都合のいい手駒だなんて……支局の仲間たちが……
今まで,一緒に戦ってきたメンバーの顔が目に浮かんでいた。
失った家族の笑顔を胸に,悲しみを怒りに変えて戦っている者。
修羅場と死線を何度もくぐり抜け,体と精神を傷だらけにしながらも心を強く保ち,常に気さく
で快活な表情を絶やさない者。
本当は,仲間を思う気持ちを人一倍強く持っているのに,人と距離を置き,人嫌いかと思われる
ような態度をとり続けている者。
そして……二度と顔を見ることの叶わない,任務に命を散らしていった仲間たち。
……ゴードン……スティーブ……ラングレット……
アヤの胸に,言いようのない哀しみが渦巻く。
グリストファがしようとしていることは,そんな仲間たちの,真剣で一途な生き様を踏みにじる
行為以外の何ものでもない。
……そんなこと…絶対にさせないわ……
だが,ここで,アヤは一つの疑問が形を成し始めるのを感じていた。
違和感。
なぜ今回,グリストファは自身の支配するNMCに,直接,研究施設を襲撃させたのか。
……リスクを考えれば……自分は陰に徹し,MISTに踏み込ませるように仕向ける方がいい……
それが普通だ。
いくらアーゼルが相手とはいっても,グリストファであれば強制捜査を行えるだけの状況操作と
理由づくりは難なくやってのけるだろう。
しかし,現実にはそれをせず,自分の陰の力を行使して襲撃を行った。
それには,そうせねばならない,必然的な理由があるということだ。
つまり…
……MISTに動かれて,発見されるのを避けたいモノがある……
或いは,研究資料などよりもよほど重大な……自分たちが,他に知られることなく手に入れたい
モノがあるということなのに違いない。
「貴方……アーゼルを襲った目的は,研究資料なんかじゃないんでしょ? 何がねらいだったの?
何をそこで発見したの?」
アヤは,射抜く瞳でグリストファを見据えた。
グリストファが,そこまでして求めようとしたモノ……
並大抵のモノではないはずだ。
ひどく嫌な予感がする。
果たして…
グリストファの瞳は,深い色を湛えたまま動かない。
ただ,無言でアヤの瞳を正面から受け止める。
「答えて……」
重苦しい沈黙をはね除けて,アヤは声に力を込めた。
胸騒ぎが強まる。
心臓の激しい鼓動が痛かった。
「ほぅ……」
グリストファは,口角を微かに上げて応える。
見つめるアヤは,自身の読みが的中したことを確信した。
「ネオテニー計画だよ。もちろん,一般的なNMCを創るためではない方の意味でね」
静かに,沈黙を破ったグリストファの声。
それは,突然の雷鳴のように,瞬時にアヤの思考力を奪った。
ゆっくりと,重々しい言葉の意味を理解し……アヤは,頭の中が真っ白になっていくのを感じる。
ネオテニー計画…
……嘘…っ……そんな馬鹿なこと……あれは,もう…終わったはず……
再びその名を聞くなど,考えもしなかった。
過去の事件,研究のためにイブを創造した……忌まわしい計画。
その名を聞くだけで,血液が逆流しそうな気がする。
「まさか…そんなものが……」
「知らなかっただろう? もう終わったものと思っていたかね? そう,以前の事件でも確認され
たが,君のサンプルをクローン培養する,あのネオテニー計画が進行していたのだよ」
アヤは,目眩を感じ,ふらふらとベッドに両手をついた。
激しくなった動悸が収まらない。
……人はどうして…何度も何度も……そんな愚かなことを……
シーツを握り締めたままで,体が独りでに震え始める。
何と,おぞましい…
そのような狂気に取り憑かれたプロジェクトが,今もなお自分の知らないところで進行していた
などと…
グリストファの説明は,淡々と続く。
「突き止めた我々としては,何としてもそれが欲しかったのだがね…奴らは,それを隠すため……
いや,我らの手に渡るのを恐れて,研究所の下層部分で自爆装置を作動させた。残念ながら,君の
幼生を手に入れることは叶わなかったよ。まぁ,もっとも,君のところのイブ君とは,似て非なる
失敗作だったようだがね」
カアッとした何かが,頭の中を灼いた。
アヤは,言葉を発しなかった。
ただ,グリストファを,瞬きもしない尖鋭な光で突き刺す。
急激に膨れあがる殺気。
訳の分からないまま,噴きだしてくる怒りの感情。
自身の内側にある,破壊の衝動が嵐となって吹き荒れようとする。
……人をモノか何かのように……よくも……何ということを……
アヤは,体から滲む熱気と共に,自身を忘れていくのを感じた。
アーゼルも,グリストファも,何もかもが許せない。
……許さないわ…決して……
普段は抑えていたものが,頭をもたげ,内側から鍵を開け放ち,その姿を現してくる。
アヤは,それを抑えなかった。
……許さない…許さない……ネオテニー計画……終わらせたと思ったのに…誰…誰が……
頭の中では,様々なものが色を失い,白く霞のように消えていく。
はっきりと形を残しているものは,ただ,目の前にいるグリストファへの憎悪だった。
……消す…もう一度,すべて消す…綺麗に……跡形もなく…完全に……
内側からの声が,アヤの感情に寄り添いながら重なってきた。
汗が流れ落ちる。
金に光る髪が,風を受けたように波打つ。
そのとき……
「うぅ……」
呻く声が聞こえた。
何の気なしに目を向けたその先。
声の主である何者かが,グリストファの腕に抱えられている。
何だろう……
無意識ながら,その姿にアヤは何か逡巡するものを感じ……突如,はっと我に返った。
……クロカワっ!? いけないっ……
その姿を認め,アヤは正気を取り戻す。
自身の状態に気づき,慌てて力の暴発を抑え込む。
「ぐうぅ…んっ…」
峻烈な反動がやってきた。
出口を失ったエネルギーが……膝を,背筋を,脳を駆け巡り,再び体の中で暴れ回る。
それでもアヤは,自分を見失うまいと自分の意識に集中を込めた。
「っうぅ…ぁあ…はぁ…はぁっ…」
時間は,そう長くはかからなかった。
2,3秒か。或いは5,6秒か。
間もなく,身を焦がすような熱の奔流が退き,すべてが静かに収束していく。
すんでのところで踏み留まることができたことをアヤは知った。
……危なかった……
アヤは,華奢な肩を大きく上下させ,はぁはぁと荒い息をつく。
自分は,何と言うことをしようとしていたのだろう。
過去,幾度か体験した,周囲の生物をすべて焼き尽くしてしまう,パラサイトエナジーの暴走…
それが,耐性をつけたグリストファに,どう影響を及ぼすのかは分からない。
しかし,クロカワは……
力の暴走は,相手が誰であろうと見境がない。
もし,あのままであれば,アヤが意識を取り戻したときには,クロカワは既にこの世から消滅し
ていたに違いなかった。
もう少しで,クロカワを死なせてしまうところだった…
そんな,放心してしまいたくなるような戦慄がようやく去り,徐々に自分を取り戻しかけて……
気づく。
扉の前で,孤高の闇に立つ人の形をした魔物…
夏の夜に,淡く冴え冴えとした銀青色の光を受けたグリストファが,喉を鳴らして嗤っていた。
「思った通りだ。クロカワが,アヤの思念を感じ取ったか……くくく,これは素晴らしい」
アヤは体を起こし,グリストファを見上げる。
嗤いが波動となって,空気を揺らしアヤの胸に伝わってきた。
肌がざわめく…
とても人間とは思えなかった。
今まで,人間から離れてしまった自分を哀しく思うことはあったが,この魔物に比べれば遙かに
自分は人間だと思う。
闇の中に物の怪が現れたような,肌を刺す感覚が込み上げてくる。
アヤは,体が芯から冷えてゆくのを感じた。
第2回
意識を混濁させたクロカワの触手……無数の手が,アヤの存在を追い求めるかのように,周囲を
探りつつ揺らめいている。
「ほぅ,お前もアヤが欲しいか? 少々,ストイックに過ぎる奴だから,普通ではないのではない
かと心配していたぞ,クロカワ。それとも……それが最後の思念だったか? くくくっ…」
揶揄しながらも興味深そうなグリストファの言葉に,アヤは引っかかるものを感じた。
「最後の…思念…?」
そうだなと言って,グリストファは真顔になる。
「人間としての意識と繋がった,臆念や情念とでも言えばよいかね? NMCの中でも,人工的に
創られたモノをアンミックと呼ぶようだが,我々はそこからも少し距離を置いている。幼生時代を
経て本能部分を中心とする前時代的なNMCか,人としてのそのような臆念や情念から能力を形に
したNMCか…我々は,ここよりも少し進んだと思っているがね。しかし…どこから見ても人その
もので,NMCの獣性と能力をコンピュータのフォルダか何かのように,他への干渉を許さず独立
させておけるものが,アヤ・ブレア,君だ」
「何を言っているの…」
研究者的な言い方をするグリストファの話は,ようとして要領を得ず,すぐには理解することが
できない。
そこに隠れた意味を探ろうとしながら,アヤは訝しく眉根を寄せる。
「成り立ちの違いなのだよ。我々の能力は,ミトコンドリアの力を,本能部分ではなく情念部分に
リンクさせ,強く念じる事によってその力を発現させている。いうならば,精神力が重要な要素と
いうことになるな。ここまでは,アヤ,君も同じだろう?」
アヤは頷いた。
数世代前のNMC…特にアンミックの場合,幼生時代を経ることによって本能の部分でミトコン
ドリアと繋がるため,その支配を制御するものは何もないに等しい。
それが何を指すかと言えば,生体を維持する多大なエネルギーを取り込むというミトコンドリア
からの連続的な指令を呼び,生存欲にとらわれ凶暴な獣性を露わにした肉食行動……つまり,人の
精神・知性の完全な崩壊である。
事実上,ミトコンドリアに精神まで支配された完全なNMCとなる。
だから,人の精神や知性を残そうとすればするほど,ミトコンドリアとの繋がりは細く限定的に,
または選択的にする必要がある。
自分に,どうしてそれができているのかは分からない。
けれど,グリストファは,それを解明して可能にしたということなのだろう。
だが,とグリストファは続けた。
「情念とミトコンドリアのリンクは,時として非常に危険でもある。たとえば…感情を爆発させる
ような事態がそうだ。我々は,この身の内側に獣性を飼っているものでね,自分を見失ってしまう
と抑止力が効かなくなり,それを解放させてしまうこととなる。一度そうなってしまうと,理性は
崩壊して情念だけが肥大し,もう二度と戻ってくることはできない。知能も何もなく,1つのこと
しか考えられない醜悪なNMCと成り果ててしまうのだ……ここが,君との違いだな。ふふふっ…
アヤ,先ほどの収め方は見事だった」
不敵な笑いが,夜陰に乗って胸に響いてくる。
アヤは,グリストファを凝視した。
冷たい汗が,背中を流れ落ちるような感覚が肌にある。
今…分かった。
グリストファは,試したのだ。
先ほど,暴走寸前までいった自分のパラサイトエナジー。
あれは,グリストファの意図したものだったのだ。
わざと自分を挑発し,激高させ,パラサイトエナジーを暴走させるために。
「知って…たのね……それで,わざと……」
「確信していたわけではなかったがね」
アヤは溜息をつく。
パラサイトエナジーの暴走まで把握されていたとは…
しかし,もう特に驚く気持ちは起きなかった。
あんな危険なものを暴走させる事に,何の目的をもっていたのかは分からない。
今,話をして見せた自分の理論を,実証したかっただけなのかもしれない。
ただ…自分以上に,自分のことを知っているグリストファ。
グリストファが,どれだけのことを知っていたとしても,当然のような気さえしていた。
……それを確かめて,何をしようというのだろう……
疑問は尽きない。
だが,そうして深い色の瞳から思考を読み取ろうとしても,それは無駄な事であるように思える。
それよりも……今は,クロカワのことが気がかりだった。
アヤは,哀しみのこもる瞳でクロカワを見つめる。
「つまり…クロカワは,今,そういう状況にあるということなのね…? 自分を見失うような事態
にあって,その事にとらわれたままの状態で暴走をしていると…」
返事はなかった。
それが肯定である事に,痛いほど心が揺らぐ。
……どうして……あのクロカワが……
倒さねばならない敵という立場に変わったにもかかわらず,辛さが胸を灼くようだった。
なぜ,よりによってクロカワが,そのようなことになったのだろう。
アヤにとって,クロカワとは特別な存在だった。
自分の師であることを,誇らしく思っていた。
いつも冷静に戦闘状況を見極め,どんなに苦戦する状況になっても,必ず活路を切り開きチーム
を帰還に導いてきたクロカワ。
クロカワが一緒にいるだけで,作戦中の生存率は飛躍的に上がると言われていた。
そのクロカワが,感情を爆発させ,自分を見失うようなことなどあるのだろうか。
NMCになったとしても,暴走してしまう事態など考えにくい。
いったい何があったの……
それが,クロカワのこの姿と繋がっているのならば……
「教えて……クロカワに何があったの…?」
アヤは,それを知りたいと思った。
「覚えているかね?」
アヤの問いに直接には答えず,グリストファは逆に問いかける。
それは,最初に小屋の前で戦ったNMC群のことだった。
「恐らく君は,思念を送ることによって,あのクリーチャーを支配し動かしていると思っているの
だろうが,実はそうではない」
グリストファの真意を測りかね,アヤは無言でその顔を見つめる。
それは,やはり野心と驕傲に満ちた表情には違いなかった。
ただ…アヤは,グリストファが見せる姿は,見せかけに過ぎないような気がしていた。
……そう…この目よ……
原因は,堂々と迷いもなく,そして読み取ることのできない瞳にあった。
概して,犯罪者とは,精神に何かを欠落させているものだとアヤは思う。
それが,グリストファには見当たらない。
いや,確かに,欠落したモノがあるからこそ,これだけの大きな犯罪を画策したのには違いない
のだが,精神や言葉に一片の破綻も見えないのだ。
……あくまで,理性的……大胆に見えて,実は緻密すぎるほど細かく計算している……
アヤは,グリストファをそう観るようになっていた。
何かに取り憑かれ,自分の才能に酔っているだけの人間や,野心を昂ぶらせただけの人間ならば,
これだけの大きな犯罪を成し遂げつつある今,ここまで自分の内面を抑える事はできない。
もっと,高揚感に酔い,自分を抑えることができずに様々なことを吐露し,本音を分かりやすく
表にしてしまうはずだ。
それがないということは……
……よほど,ブレることのない,しっかりとした目的があるのか……
或いは,とアヤは考える。
……本当の狂気を,今まで隠し持ってきたか……
胸に呟きながら,アヤは,冷たく鋭い刃を目の前にするような寒気を感じていた。
はっきりと,狂っていることが分かるような人間とは,つまりは浅薄なものであり,何と言う事
もない。
だが,真に恐ろしい…内面に潜んだ,ぞっとするほどの狂気は,多分,誰にもそれと気づかせる
ことがない。
狂っているのか,いないのか,本当の姿はどこにあるのか…
それさえも定かには見分けることができない,そんな,あやふやな揺らぎこそが,真に恐ろしい
ことをアヤは知っている。
そのアヤの目の前で……グリストファの言葉は,静かに熱を帯びようとしていた。
「我々は,思念を送ってNMCを支配しているのではなく,思念を同調させているのだ。シンクロ
タイプとでも言おうか。我々本人の意識が,NMCの体に宿る状態となる。それが,どういうこと
なのか分かるかね? NMCの目が見ているものが我々には見えるし,触れたものの触感が我々に
伝わってくる。背後にいる者の気配も感じることができる。五感がすべて繋がっていると言えば,
分かってもらえるかね? 思念を送るだけではこうはいかない。まあアヤの母国で言うと,実体の
あるブンシンノジュツといったところかな」
「そんなことが……」
思念を『同調』させる能力…
アヤは,我が身で受けたグリストファの能力を思い返す。
毎夜,見せられていたあの夢。
滑り込んできていたグリストファの思念。
あの夢に悩むほど翻弄されていた自分は,確かに思った通りに操られていた。
その思念を送る能力が,婉曲的に時間をかけて人を操る能力だとすれば,思念を同調させる能力
とは,より直接的に戦闘的に応用したものということなのだろう。
しかし……とアヤは疑問を持つ。
人間相手は勿論のこと,意思を持つ生物の場合,思念を同調しようとしても,ただ混乱を来すだ
けの結果となるのではないだろうか。
たとえ知性の低いNMCであったとしても,何らかの強烈な意思を持っているからこそNMCと
しての能力を発揮しているはずであり,とても容易だとは思いにくい。
あのときの,NMC群の一糸乱れぬ統率の取れた動き……
……あれには,まだ何かが隠されているはず…そうでなければ,可能なはずがない……
アヤは,じっとグリストファを正視する。
グリストファは,ニヤリと笑んだ。
グリストファは,クロカワを運び入れ,ベッドにゆっくりと横たえる。
その所作は無造作のようでいて,決して少しのダメージもクロカワに与えまいとするもののよう
に見えた。
「思念の同調……不可能に思えるかね? しかし,実際,可能なのだよ。ただ,どんな生体でもと
いうことはない。くくくっ,ここが実に悩ましいところでね,思念を完全に同調させることができ
る相手とは,『我々自身』でしかないのだよ。アヤ…ふふふっ,この意味が分かるかね?」
「我々自身…?」
嫌な予感が,胸をよぎる。
アヤは,眉をひそめた。
得体が知れないながら,不快な響きが拭えない。
「つまり,だ。我らが動かすNMCとは,すべて我々自身をコピーした生体なのだ。コピーと言っ
ても,培養コピーの特性でね,何かを学習することも社会性もないため,それ自体は大した知能の
ない生体となっている。それに,ミトコンドリアの力を引き出して防御力を高めたことで,人間の
コピーというよりは,どちらかと言えばNMCの姿に近くなってしまったがね,しかし,コピーで
あるが故に,思念を完全に同調させることができる長所をもつ。情報は当然ながら,本体とコピー
双方向に繋がっている。その結果,自分の手を動かすように,NMCを動かすことが出来るという
ことだ」
グリストファの言葉は,アヤを愕然とさせるものだった。
「コピー………ネオテニー計画と同じじゃない…そんなものまで…貴方は…」
アヤは,呆然と呟いていた。
たとえ,培養された「コピー」が知性を持たないとしても,1つの生命体を完成させる技術を得
たなど…
人や動物をNMCに変える技術はあっても,小さな細胞を培養して1個の生命体を創り出す技術
は,まだ確立されていないはずだった。
あの狂気の研究によって生み出された……イブ以外には。
「そう…だから,アーゼルのネオテニー研究は邪魔だった。まして,知性の有る無しにかかわらず,
アヤのコピーなどを創られては後々,面倒なことになる。商売敵は,何としても潰しておく必要が
あった」
アヤは,苦しげに喘ぐ。
狂っている…
コピーなどと…邪魔などと…生命をモノのように扱う考え方。
「では……クロカワも…」
「無論,クロカワもこの能力を持って,自身のコピーを使っている。進んで,今回のアーゼル襲撃
に加わってくれたよ。クロカワは大したものでね,その卓越した精神力と集中力で,コピーを10
体まで動かすことができる。要するに,10人のクロカワがいるようなものだ。しかも,コピーが
得た視覚などの現場情報は,クロカワ本体に,続いてコピー全体にと瞬時に伝達される。あれほど
の流れるような動きは,クロカワならばこそだな。そばで見ていても,惚れ惚れする美しさだった。
今日の戦闘にしても,相手は多数のNMCを揃えてはいたがね,まるでクロカワの敵とはなり得な
かった……アヤ,君の師は,まさに賞賛すべき男だよ」
グリストファは,人でありながら,人外のモノのような笑みを浮かべる。
ひどく禍々しく…
闇の中で青白く仄かな光を放つ剣のような,冷たさと恐ろしさ。
「分からないわ……」
アヤは俯き…そして,首を振る。
何と言えばよいのだろう。
様々な思いが,胸の中で錯綜していた。
どうして…
アヤは,潤みを帯びた瞳でクロカワを見つめる。
どうして,クロカワは…こんな冷たさの中に身を置いているのだろう。
いつも仲間を大切に考え…ずっと側にいたいほど,温かさを感じる人だった。
命というものをそんな風に軽々しく…まるで,ただの便利な道具のように扱う人ではなかった。
……どうして,こんな…殺伐とした処に貴方はいるの? 貴方は,こんな処にいる人ではなかった
のに…どうして,私たちの処にいてくれなかったの…?……
アヤは,ベッドの傍らで動かないクロカワの体に手を添える。
引き締まった精悍な体…
大小様々な傷が幾つもある。
この1つ1つの傷痕が,クロカワの経験であり,生き残るための知識の源だった。
……私たちを助けなければ…この傷は,もう少し…少なかったのかもしれないわね……
笑いは,声にならなかった。
アヤの細い指先が,去来するものを愛おしむように,ゆっくりと肌をなぞっていく。
覚えている…これはあのときの傷。
鬼神のような強さで敵を蹴散らし,駆け寄って来てくれたクロカワ…忘れたこともない。
……あのときの貴方…顔は鬼のようだったのに,目の奥がとても優しくて……貴方の黒い目…私,
好きだった……
一粒の熱い雫が,クロカワの頬に落ちた。
あんなに強く,どんなに苦戦してもまるで動じることがなかったクロカワ。
アヤにとって,『不動』『不惑』に最も近い人物だった。
だから,どうしても信じられない。
……それが…どうして……自分を見失うような…そんなことになってしまったの……
多分,クロカワのこの暴走は,戦闘によるものではない。
何か別の理由があるはず…
とすれば,何かを見たのか…
何かを知ったのか…
……知りたい……
クロカワに,自分を見失わせたモノ…
クロカワが,感情を爆発させることになった事態…
「何があったの……教えて……」
クロカワの短い髪をかき上げ,小さく囁いた……そのとき。
「……っ!」
アヤの体の中で,何かがざわめき始めた。
一陣の青色の風が,周囲を包むほど膨れあがり,そして疾風のように駆け抜けていく。
金色の髪がふわりとなびき,それとともに,脳の中に何かが流れ込んでくる……
……こ,これは…っ……
ミトコンドリアの共鳴…
アヤの新能力,相手の思念を読み取る『リーディング』の発動だった。
この章,続く
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